LOGIN庭の菩提樹の葉は一枚、また一枚と落ち、広坂大通りのアメリカ楓は黄色に色付き始めていた。
「向坂先生、この顔料なんですけど」
「なに?染まらないの?」
私は肩までの黒髪を一つに結え、顔料で薄汚れた白衣を羽織った。専門は染色デザイン科で、指先はいつも赤や黄色に染まっている。美術工芸大学の教壇に立っている時は全てを忘れた。ゼミナールで意見を交わしている時は朗らかに笑うことも出来る。けれど胸にはぽっかりと穴が開き、木枯らしのように冷たい風が吹き荒んだ。
「…ふぅ」
十一月の鰤起こしの雷が轟く頃、一人の茶の間を寂しく感じた私は香林坊の小料理屋に通うようになっていた。吾亦紅は無口な店主と、気配り上手な女将が二人で切り盛りしているカウンター席だけの小料理屋だ。三十過ぎの寂しい女が、一人でお猪口に口をつけるには丁度良い。バックミュージックのない静かな空間に、おでんの鍋がグツグツと煮える音だけが響く。
「橙子さん、あんな暗い路地の家、危なくないかい?」
「こんなおばちゃん、誰も相手にしないわよ」
「何をまた!こんな別嬪さんが!どこか明るいマンションにでも引っ越したら?」
かつて夫が選んだ家は、細くて狭い路地の突き当たりにあった。街灯もまばらな薄暗い立地で、女将はしきりに引っ越しを勧めた。「ウルセェな」そして店主に一喝される、いつもその繰り返しだった。微笑ましい二人の遣り取りに目を細めていると、賑々しい集団が吾亦紅の引き戸を勢いよく開けた。
「予約していた雨宮ですー!お邪魔しますー!」
「チッ、ウルセェな」
二十代中頃といった若い男性が六人、カウンター席に次々と腰掛けた。ネクタイを締めている者、薄手のダウンジャケットを羽織っている者、各々、三人三様の出立ちだった。店主が顔を顰めたように、確かにうるさく居心地が悪かった。
「お勘定、お願いします」
席を立とうとすると、ネクタイを締めていた男性が「まぁまぁ、お姉さんも一杯どうぞ」とお銚子を取り出した。雨宮だと言った彼はサラリーマンで接待に手慣れている感じを受けた。仕方なしに席に座り直すと、お猪口には日本酒が並々と注がれた。
「もう飲めないわ…」
「まぁまぁ、そう言わずに」
仕方なしに「最後に一杯…」とお猪口を差し出すと、ダウンジャケットを羽織っていた男性がその手首を軽く握った。不意の出来事で驚いて顔を上げると、黒縁眼鏡にゆるいパーマをかけた男性が口元をへの字にしていた。ゆるいパーマは湿気でくるくると巻き、鳥の巣のようにも見えた。
「お姉さん、もう飲めないでしょ?」
女将の顔を見ると大きく頷き、磨かれた鍋の蓋が差し出された。鍋の蓋にぼやけて映った私の顔は赤く赤らんでいた。「やだ、帰らにゃキャ」既に呂律が回らない私はお猪口をカウンターに置いて立ちあがろうとした。ところが足元は覚束ず、立ち上がることも出来なかった。
「ほら、飲み過ぎだよ。送って行くから」
普段ならお断りでタクシーを呼ぶのだが、ここまで酔っているとタクシードライバーに迷惑をかけてしまうに違いなかった。
「…すみません…お願いしにゃす」
「住所教えて」
「にゃい」
ところがタクシーに乗った途端、暖房の効いた車内で私は心地よい眠気を覚えた。記憶は朧げで定かではない。寄りかかる肩に回される逞しい腕。嗅ぎ慣れた匂いが鼻先をくすぐる。「降りますよ」低く落ち着いた声が耳元で囁いた。
「…ん」
あたたかい人肌の温もり、心地よい身体の重み、寄せては返す快楽の波が次第に高みへと導く。「厳夫…さ…ん」私は幸せに酔いしれ、久しぶりに穏やかな眠りに落ちた。
「ん、んんっ!?」
気がつけば私は一糸纏わぬ姿で見覚えのない天井を見上げていた。窓のない部屋、趣味が良いとは言えない装飾、化繊の薄っぺらいベッドカバー。
「ここ…ラブホテル!?」
当然、隣に鳥の巣頭の男性の姿はなかった。慌ててゴミ箱を確認すると、避妊具の封が切られていた。思わず安堵の息を吐いたが、そこではない。
「嘘でしょ?」
私は見ず知らずの年下の男性と一夜を共にしてしまったのだ。鏡で確認すると首筋に赤い花びらが点々と付いている。床には雑然と脱ぎ散らかした衣類。
「さ、財布!」
ショルダーバッグの中に財布は残っていた。現金もクレジットカードもキャッシュカードも持ち帰られた形跡はない。もう一度、安堵の息を吐いた。
「でも…これって…ホテルの代金、私が支払うのよね?」
二日酔いで痛む頭を抱えた私は、昨夜の自分を悔いながら渋々精算ボタンを押した。
SIDE向坂橙子アブラゼミが賑やかなキャンパス。夏季休暇の最中、私は美術工芸大学に退職願を出した。「向坂くん.......これは」教授は眼鏡を上下させ白い封筒を二度見した。「来月をもって退職を......お願いします」「しかしまた、突然だね」「一身上の都合で......母親が体調を崩しまして」「そうですか......」母親のことなど言い訳にすぎない......私は自分の弱さを重々承知し、次に右京が訪ねて来たとき、それを撥ねつける強さを持ち合わせていなかった。心の寂しさ、身体の貪欲さに負け、右京とまただらしのない関係に陥ることだけは避けたかった。私の自尊心がそれを許さなかった。「もしもしお母さん......心配かけてごめんね......明日、金沢を発つわ」私は大学講師やゼミナールの学生、ロータリークラブの先生方にも行き先を告げず、二十年暮らした金沢市を離れた。特急列車青いサンダーバードの車窓には石川県独特の黒光りする瓦屋根が何処までも続き、犀川を越え、加賀平野を見渡し、それはやがて日本海へと注いだ。「もう福井県......この景色も見納めね」深緑の峠を越える長く暗いトンネル。避難経路の白い明かりが前方から後ろへと流れる。黒い窓ガラスに映る私の顔はやつれていたがその目に迷いは無かった。トンネルを抜ける、視界が白く開け、光に包まれた。SIDE雨宮右京やがて鰤起こしの雷が鳴り、重苦しい鉛色の雲が冬空を覆った。俺は日々仕事もせず酒を浴びる様に呑んでいた。「......橙子さん」離婚し、何もかもを失った俺の心の拠り所は石畳の小径、ドウダンツツジの垣根のあの家だった。「もう来ないで」橙子さんの最後の振り絞った声が耳にこだまする。「橙子さん......橙子さん」俺は我慢の限界を超え、橙子さんに会いに行った。ところが錆びついた赤いポストに向坂橙子の名前はなく、雑草が腰丈まで伸びていた。酔いに任せた俺は玄関のガラス戸を外し、家の中に入った。懐かしい白檀の香りが漂う......けれど違和感を感じた。「何もない......」電化製品も見慣れたちゃぶ台もあの籐の椅子もなく、座敷の仏壇にあった忌々しい向坂厳夫の位牌もなかった。「凪子さん......凪子先生.....
夏蜜柑の庭は雑草が伸び放題で、酷暑の名残で立ち枯れているものも多い。何もかもが萎れた夏だ。私は籐の椅子に身を委ね、泰山木の林をぼんやりと眺めている。鋳物の風鈴の音が涼しい音色を運び、その音を耳にする私は、ようやく自分が生きているのだとそう感じた。カラカラカラ......鍵を閉め忘れた玄関の引き戸が開いた、それは諦めの悪いもう一人の自分が.......右京を待ち焦がれそうしたのかもしれない。「不用心ですよ......橙子さん」私は振り返ることなく泰山木の庭を見ていた。土間から上がる聞き慣れた足音、畳が沈む、愛おしい人の影が近づき私の唇にそっと温かいものが触れた。それは愚かな右京と私の人生の証だ。懐かしい温もりに、私の心は立ち枯れの草のようにザワザワと揺れた。「何か用?」色味の沈んだ唇が、冷たさを含んで言葉を解き放つ。「連絡したのに、橙子さんが無視するからいけないんですよ!」右京はすがるように身を乗り出した。「もうあなたに連絡する意味がないわ」「どうして!?僕はもう真昼と離婚したんです!自由なんです!」私は怪訝な顔で彼を見上げた「自由......自由なの?真昼さんの人生を壊したのに?」台所でピチャンと水音が垂れ、洗いかけの鍋に落ちた。シンクの中もレンジフードも油がこびりついている。何もする気が起きない。以前の隅々まで行き届いていた美しさは見る影もない。「え?」右京は私の痩せ細った手を握り怪訝な顔をした。私の薬指からプラチナの指輪が消えていることに気づいた。「指輪......どうしたんですか?」「指輪?」「僕があなたに贈ったエンゲージリングです」日暮の鳴き声が遠くから響き、悲しげな夕暮れを告げる。「あげたわ」「......誰に?」「真昼さんに......」その名前に右京の顔が青ざめる。それまで優しく握っていた私の指先からおずおずと手を離した。「相変わらず......臆病なのね」心の中で呟く。「真昼が来たんですか?いつ?」「知らなかったの?」「知りませんでした....でも指輪は!なんで真昼に!」彼は私に縋り付いて肩を揺さぶった。「指輪は彼女に返したの......私があなたに貰った、誰にあげようと自由だわ」「僕は橙子さんに贈ったんだ」「そもそもそれが間違いだったのよ」
SIDE向坂橙子見知らぬ番号から着信があった。二回コールで止まる、右京との秘密の合図。あの日、美術棟で「別れましょう」と告げ、背中を丸めて階段を降りる右京の寂しげな足音が耳に残る。あれから何の音沙汰もなかった。「もしもし」と折り返すと、女性の声。「向坂橙子さんの携帯でお間違えないでしょうか?」「は......はい」「真昼です、突然申し訳ありません」。凛とした涼やかな声......ホテルのロビーで聞いた力強い声だ。「失礼かと思いましたが雨宮から向坂さんの携帯電話番号をお聞きしました」「......いえ、大丈夫です」「明日の午後、お時間ございますか?」。私は真昼さんと、右京と過ごしたこの家で会うことになった。白檀の香りが染みついたこの家。裏切りが胸を抉るニューグランドホテルの叩きつけられた茶封筒、舞い散る不貞の証。ドウダンツツジの垣根が揺れ、金沢の冬の陽光が隠れ家を照らす。橙子の不安と真昼の決意が、電話の向こうで静かに交錯する。春も近い昼下がり、軒先の雪がハタハタと落ち、夏みかんの樹にヒヨドリが止まっている。柔らかな陽光を引き裂くその鳴き声が緊張を高める。約束の時間が近づき、恋人の正妻があの用水路の橋を渡り石畳の小道を歩いてくるその姿を思うと気が重くなり手に汗を握った。雪を被ったドウダンツツジの垣根に赤い傘の色が浮かび、飛び石を踏み締める靴の音がジャリジャリと耳に響く。「赤いタータンチェックの傘、真昼さんらしいわ」私は心の中で呟いた。「ごめんください」引き戸が開き、白いワンピースにピンクのコートを羽織った彼女は、傘についた水雪を軒先で払い留め具で留める。黒い肩までのボブヘアーの雪を払い、土間で見上げる真昼さんの目は澄んで輝き、私は思わず目を逸らした。「ご足労頂きまして、申し訳ございません。」「お邪魔します」ゆったりとしたワンピースに隠れているが、妊娠していることは明らかだ。「足元、段差ありますからお気をつけください」「ありがとうございます」ぎこちない敬語が緊張感を高めた。彼女は「......ふぅ」と息を吐くと畳敷の茶の間に座った。そして、障子の隙間から泰山木の林を眺めていた。軒先で外し忘れた鋳物の風鈴がチリンと鳴った。「あれは......何で出来ているんですか?綺麗な音です
SIDE向坂橙子LINE通話の着信音が二回で止まった。私は白いカッターシャツに、長めの黒いタイトスカートで菩提樹の庭を眺めながら気怠そうに煙草を吸っていた。雨が降っている......冷たい雨だ。秋も深く枯れ葉色の縁側は、何もかもが色褪せて見えた。右京からの連絡を待ち続けて五年。いつ着信があるかとスマートフォンを肌身離さず持ち歩く癖が付いていた。一日おきに連絡が来る時もあれば、半月音沙汰がないこともあった。けれどそれは、密会の約束だけで会話はない。「右京に......折り返しの電話をしなきゃ......」この頃、右京への折り返し通話が気怠い。「もしもし?どうしたの?」スマートフォンの向こう側、息遣いがいつもと違う。右京の落胆ぶりがひしひしと伝わってきた。よくない知らせのような気がして、胸の奥底に重い石が沈み込む。「何かあったのね?」その返事は沈黙で遮られた。「橙子さん、困ったことになりました」「何が?」「昨夜、真昼とセックスしてしまいました......避妊も忘れました」それは私を無情にも切り刻んだ。あぁ、とうとうこの日が来てしまった......私は平静を装い次の言葉を選んだが、語尾に棘が刺さる。「夫婦だもの、それが普通よ」私は、右京と真昼さんが触れ合いのない、形だけの仮面夫婦であることが心の拠り所だった。右京が欲するのは自分だけなのだと......女性として求められているのは自分だけなのだと、それだけで自我を保っていた。すっかり枯れてしまった夏みかんの庭に、冷めた目で立ちすくむ自分がいる。また右京に裏切られた「避妊し忘れたの......」「......はい」真昼さんには子宮がある。私がどれだけ望んでも手に入れられないものを彼女は持っている。ただそれだけで右京の両親に選ばれ、右京と結婚した。拠り所のない孤独が押し寄せる。「子供が出来たらどうしましょう......」「良いんじゃない?お母様も喜ばれるわよ」右京が父親になる。彼が真昼さんと離婚するなんて夢のまた夢よ。恋情はいつまでも続かない......眩しい新緑の季節、シイノキの下で橙の皮を剥いていた二十六歳の右京も、まだ溌剌とし
次に、プリントアウトした右京と橙子さんのLINEトーク画面を持ち出した。会う予定の日時、2018号室、食事の画像、目を覆う卑猥な写真……すべてが並ぶ。「橙子さん、会いたい」「早くしたい」「我慢できません」「今度こそ結婚して下さい」「愛しています」……次々と既読の文字が冷たく響く。「なんだよこれ! 真昼! おまえ俺の携帯見たのか!」「だって!」「信じらんねぇ!」「だって右京くんが!」「プライバシーの侵害だろう! 人間として恥ずかしくないのかよ!」と右京が激昂する。裏切りが座敷を埋めた。義父母の顔が青ざめ、誠の拳が震える。真昼の冷静さと右京の逆ギレが、家族の衝撃を静かに包んだ。「こ......これは......向坂さん......」「こんな子も出来ないと女とは別れろと言っただろう!」私は義父の言葉で初めてその事実を知った。「こんな子も出来ない?」橙子さんは不妊症だったのか......。それで婚約が破談になったのかもしれない。私の口元に冷たい笑みが漏れる。右京の父親が手のひらを振り上げた瞬間、お父さんがフードパーカーの襟首を掴んで締め上げた。右京の顔が歪んだ。「てめぇ、いつからこの女と付き合ってた!」「お......おとう」
母屋の玄関で右京の両親が私たちを出迎えた。上がり口には右京のクロックスが脱ぎ散らかされていた。その光景に父親は眉間にシワを寄せた。「竹村さん、お久しぶりです」右京の父親が会釈する。「ああ、久しぶりだな」「このたびは、とんだご迷惑を」「そんな事ぁどうでも良い、さっさと済ませようぜ」父親は娘の嫁ぎ先でもべらんめえ調だった。「こちらへどうぞ」 日本庭園を眺める長い廊下、襖には水墨画、床の間には紅梅に鶯の掛け軸が飾られていた。「紅梅に鶯たぁ、季節外れだな」「しっ、お父さん!」「本当の事を言ったまでじゃねぇか」 雨宮右京はこの立派な家で蝶よ花よと育てられ、妻の苦悩や葛藤、痛みを慮る事が出来ない夫になったのだろう。「あら、竹村さん、お義父さんもいらしたんですか?」紫檀の座敷テーブルに恭しく茶托を並べる母親は息を呑んだ。「娘が世話になった家に来ちゃ悪ぃのか」「い、いえ。そんな事は」気性の激しい竹村誠の登場に義母はたじろぎ、「ほほほほ」と愛想笑いをして見せた。「そうですか、遠いところわざわざお越し頂きありがとうございます」「本当にな、ご足労なこった!」私と右京くんはテーブルを挟んで真向かいに座った。政宗おじさんは座敷で胡座を組み、ファイルをペラペラ捲っていた。興信所の資料だ。紫檀のテーブルを中央に、右京と両親、向かいに私、父・誠、政宗、久我が正座した。「本日はお集まりいただきありがとうございます」と久我が切り出す。私は後ろに下がり、畳に指を突き、深々と頭を下げる。凛々しい横顔、張りのある声……揺るがぬ信念。「大変申し訳ございませんが、私、右京さんとの離婚を考えております」義母がテーブルに身を乗り出した。「え、そうなの!?」「真昼さん、それはいきなりじゃないか」義父が慌てた口調で私の横顔を凝視している。「話し合ってやり直すんじゃないの!?」と義父母は慌てていた。開き直った右京が軽い口調で割って入る。「良いじゃん、離婚しようぜ」「…&hellip